─────キラキラ輝く湖のほとりで、
─────俺の名を呼んで笑いかけてくれた君の顔が、
もう、思い出せない。
切り立った山々が連なる様は、どんな名画よりも美しく気高い。反面、山というのはそこに住まう人々に対し、時に冷酷である。この山奥の小さな村は、豊かな自然の中に根付き、羊を飼うことで成り立っていた。
「よい、しょっ、と」
村の本体は、山の麓の、いくらかなだらかな場所にあった。ロングスカートと短い髪が、山の風に煽られ、その女は目を閉じた。若いとはいえ、細い腕の非力な女ではこのような坂を上るのは骨が折れるだろう。しかし女は、だいたい決まった日時にここを通る。私が潜む、湖へ来るためだ。
山をいくらか登ったところに、大きく清い湖がある。晴れれば水面は宝石のように輝き、夜になれば星座を映し出す。魚は、割りに少ない。私が食ってしまうからだ。もちろん、全て居なくならぬよう加減はしている。おや、女が湖にやってきた。湖から少し離れたところには、小屋がある。木々に紛れさせ、隠れているつもりなのだろうが、私は知っている。そこには男が住んでいる。ひとりだ。まったく、こんなところにまで人間という生き物はやってくるのか。世界にはどれだけの人間が溢れているのだろう。風に聞けば、争いごとをして、住む場所を奪い合っているという。住むに苦労するほどの数が生きているようだから、そう思えば住み辛くとも山奥に住む都合があるのやもしれぬ。
「ハールさん!いるー?入りまーす!……キャアッ!」
「あ!入るって言えば良いってもんじゃないだろ!?」
女がドアを開けた隙を見て、小屋から蝶が逃げ出した。珍しくも無い蝶や動物を、男はよくよく捕まえたり、眺めたりしている。
「もー!それじゃ返事してよー!」
女は、持ってきた大荷物を下ろす。中身はパンやチーズといったところか。たまに布切れ。見たところ、男に必要なものを持ってきて、餌付けているらしいのだ。
「ユキ、またこんなに持ってきてくれたのか?俺のことは放っておいてくれていいとあれほど……」
「そんなこといって、パンだっておかずが無きゃ美味しくないでしょ!今日はね、新聞も持ってきたのよ、見て」
男は村で嫌われている。だからこうして、人気のない小屋などに寝泊りしているのだ。
「新聞?俺が読んだところで何が」
「違うのよ。ほら、戦争が近くまで来てるんですって。ハルさん、もしもの時のために村に降りてきたら?なんとか父さんに頼み込んで、わたしの家に泊まってもらえるようにするから。こんな山奥に居たんじゃ、逃げられなくて死んじゃうかもよ」
男が、湖の近くを動かぬ理由は知っている。女も知っているはずだ。
「ユキこそ、そんなんじゃますますここには来ない方がいいだろ。この森は豊かだし、俺は大丈夫だからもう来るなよ。お父さんだって怒ってるだろ?」
女は、ならば今から別の山にでも行くべきだと提案する。男は、トレードマークの大きな帽子に手をあて、身じろぎした。沈黙。雰囲気が重苦しくなったのに耐えかねたか、女が話題を変える。
「それで?ハルさん、そろそろ見つかりそう?ホントに居るのかなぁ、竜なんて」
「居るさ。こんなに広くて深い湖なんだ。居たって不思議は無い。それにさっきの蝶は、俺が始めて竜を見た日に飛んでたんだよ!」
隠されるように建った小屋で、ひとり住み続ける男。動物学者だというこの帽子の男は、私を探しているのだ。滑稽である。泳ぎの下手な人間ごときが、この私を捕らえようとしているのだから。すでに私の存在を信じる者はほとんど居なくなっていた。だからこそ男は、頭がおかしいと村の仲間から見放され、今では自分より非力な女に飼われているのだ。私は、私に気付かず必死になっている男を眺めているのが面白おかしくて、ついこうして眺めにきてしまう。まあ、観察している理由は他にもあるのだが。
「……俺もね、竜なんて御伽噺だって思ってた。でもあれは夢なんかじゃないよ。ここの竜を見たから、いろんなこと投げ出そうとしてた俺が、また調べてみようって、思ったんだ」
「ふーん。」
「ほら、ユキはもう帰れよ。それとほんとに、もう来なくていいからな!来るなよ!!」
「待って待って、今日はね、ハルさんにもう一つ見せたいものがあるの!」
ちなみに、ハル、というのは男の真の名ではない。突如湖に住み始めた謎の男に、麓に住む村人の幾人かは戸惑った。なにせ小さな村であるから、よそ者は警戒されるのだろう。その中で、警戒心が無かったユキという女は、春になると湖に咲き誇るハルジオンという桃色の雑草から、いつしかハルというあだ名をつけたのだ。確かに雑草のように、何の変哲も無い男だ。
「じゃーん!見て!」
「……なにこれ」
今度は女が、人型の作り物を取り出した。薄緑の体にバツ印がしてあり、赤い羽根のような造型。呪物だろうか。
「天使ちゃんよ!どうかな?」
「ど、ど、どうって……。天使というより、悪魔のようだな……」
「ひどっ!仕方ないじゃない端切れで作ったんだから!!お裁縫はこれから上達するからいーの!」
女は男の帽子をひっぱり、手のひらほどのその人形を帽子にくくった。
「ふふ、天使さん、ハルさんの道を明るくお導き下さい!」
「そ、そこにつけるのか」
ふたりは、小屋を出て湖までやってきた。ふたりの姿は全身よく見える。
「ありがとう。ほら、ユキはもう戻れって」
「ここは、本当に綺麗よね。ここはちっちゃな村だし、戦争は関係ないと思うけど、もし湖が汚されたりしたらショック」
「ユキ、戻れってば」
「も~!ハルさん本当に降りて来てくれないの?」
「俺はいいよ。ここでいい」
女は、悲しんでいるようだ。男を好いているのかもしれない。
「ねーえ?」
「ん?」
「……味方は沢山居た方が心強いじゃない。皆がどんなにあなたを避けても、私はずっとハルさんの味方よ。だから行きましょう?」
「ありがとう。ほら、冷えてきた。明日から来なくていいからな」
男に背中を押され、女は戻っていく。途中で振り返った女は、舌を出して見せた。男は本当は女のことを好いている。夜、そのようなことをひとりで呟いている。何か悩んでいるらしかった。
────この、悩める帽子の男を楽にしてやるチャンスはいくらでもあった。人間は不味いが、竜の私がひと飲みにするのは容易いこと。その上で、私が男を眺め続けている理由……。面白いだけではなく、恥ずかしいことだが、恩があるのだ。いや、単に偶然で、恩に感じる必要はないのかもしれないが。竜の私には、生きるのに必要な薬草がある。少しあれば良いのだが、それにしても最近はあまり生えなくなった。もうこの山の周りにしか見当たらぬ。そんな山も開墾されようとしていた頃、帽子の男は来た。元は動物学者のアーサーと名乗った男、ハルは、人や物を食い止めて湖と周りの森を守った。私が彼に姿を見せてしまえば、目的は達成され、ハルは去ってしまうやもしれぬ。ここは静かで居心地が良い。人の寿命など短いが、快適な時間はできるだけ長く楽しみたい。だから絶妙なこの距離感を保ち、楽しんでいることは私の為になるのだ。
次の日の明け方は霧が出た。おかげで視界が利かぬ。しかし、遠くに耳障りな音を聞いた。ポンポンパチパチと、鬱陶しく耳にまとわりつく。ハルは普段昼まで寝ているが、奴も音を聞いたのか、起きて小屋から出てきた。
「ああ……。ウソだろこんな早く。鉄鉱石が目当てか?」
ハルは村へと続く道を、霧の中手探りでしばらく降りて行った。ここまでくると霧は多少薄まり、見えていた赤い光ともやもや立ち上る漆黒は、村が焼かれていた為だと分かった。それを見て目を大きくしたハルはその場でうろうろとし始めた。しばらくして、逃げようという結論に至ったか、坂を引き返し登っていく。振り返る。登る。また振り返る。おや、女だ。ユキがいつものように山を登ってきた。怪我をしているようだ。
「ユキ!!」
ハルがそれを抱きとめる。荒い息をしている。
「馬鹿、なんでこっちに……!」
鉄を身に着けた者どもが数名やってきた。ハルは、ユキを抱えて山道を登る。身を隠そうとしているようだ。いくつかの爆発音。あれは、異国の、たしかテッポウという武器である。突然血を流したハルを見たところ、当たったらしい。音を聞くと血が出るのかと思い、私も自分の身を確認した。なんともない。よく分からぬ武器だ。私が驚いたくらいだ、ハルも相当混乱しているらしい。興奮のためか少し震えている。霧と木々に紛れて、ハルは時間をかけて小屋へと戻ってきた。
「は、るさん……」
「ユキ、ユキ!ああ、何か、布……」
女はもうじき死ぬな。息をしているのがやっとのようだ。
「クソッ!おいユキ、死ぬな!」
「ハル、さん?ほっぺ、血が……出てるわ」
ハルの目から、水滴が落ちる。血で染まった手は震えている。ふう、と、ハルは大きく息を吐いて、次の瞬間は何故か笑っていた。ついに狂ったようだった。
「……ごめん。」
「……な・に……?」
苦しそうな息が漏れるユキの頬を、ハルが撫でた。
「ごめんな。でも……俺には許せないんだ……ッ!」
優しく触れていた手が、ユキの首筋へと移る。
「ぅ、う」
「許せないんだよ!!ユキを、得体の知れない軍隊なんかに殺されるのは!! だから俺が、殺すッ!」
「……う」
「ユキを殺して、俺も死ぬ!!ユキ……!!」
ユキが死んだ後も、ハルはしばらくユキの首を絞め続けた。そのあとユキを抱きしめ、声を上げて泣いたのち、ハルは立ち上がって、机に登った。適当な皮ひもを手に取るとそれを天井から下げ、ハルは机から降りる。ぶら下がっているようだった。遠く聞こえていた耳障りな音は、近くなり、ドンという音と、岩が崩れ山が泣く声がする。ハルも死ぬのか。山も死ぬのか。ああ、私の居心地の良い時は無くなってしまうのだな。しかし、ハルに恩を受けていたのは事実。何もかも死んで無くなる中で、ハルくらいには恩を返し、残してみたいといたずらに思った。
────オマエ ミカタ
私は、白い子どもの姿で小屋に入った。実は、私は人間の言葉は得意ではない(代わりに多少察しがつくので困りはしないが)。小屋に入ると、天井からぶら下がるハルが邪魔だった。とりあえず、ツメで紐を断ち切って降ろす。次いで私は自分の腕を切り裂くと、したたる血をハルの口に含ませた。竜の血は、人が飲めば毒だ。この毒で死ぬ者と、一方で不死の体になる者とがある。不死といっても、完璧な不老不死ではない。多少、他より丈夫で、永く生きる体となるだけだ。私はハルが息をはじめ、咳と共に血を吐いたのを確認すると、湖へ駆けて飛び込んだ。深い深い湖の底へと潜り、やり過ごすことにした。はやり、不死となったか。あやつはどこまで行っても運の良い男だった。